2017/04/02

観音様から教わったこと:音楽を「競争」に利用する人たちへ

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いつの頃からだろう。
「耳で観る」ということを言うようになった。
おそらく大学生の頃くらいからだろうか。

それがいつしか自分の生きる術(すべ)というか
大切なキーワードになっていった。

ヨーロッパで新しい街に降り立つとき
必ずと言っていいほどに、この言葉を意識してきた。

この「耳で観た」ものは感覚のなかに沈殿し
ある程度の時間が経つと
本当の経験として定着していった。

我が家ではクラシック音楽に携わるのは私で3代目。
その伝統は極めてゆっくりと、祖母から母、そして私に受け継がれてきたように思う。

でも自分としては音楽をちょっと、一般の音楽家とは違うようにとらえて来た。

それが日本のごく普通の音楽教育を受けなかったことに結び付けるのは
果たして正解だと言えるのだろうかわからないが、
私が極めて異質な存在であることは、確かだと言える。

家では3つくらいから母にピアノの手ほどきを受けたが
幼い頃は天使のような声が出ていた。

歌が好きで、いつしかコーラスに加わり
小学生の頃は本当に歌を信じて生きていた。

でもそれは「クラシック」と呼べるものではなかった。
「戦艦ヤマト」や「翼をください」
そんな歌をいつも歌って幸せを感じていただけだった。

ある時、そんな天使の声が
使えなくなった。

声変わりしたからだ。

そしてバリトンのような声で歌を歌うようになると
いつしか歌への愛着も消えてなくなった。

そんな私が中学に入ると
隣の席に座ったアリタ君が
ショパンの「華麗なる大円舞曲」を完璧に弾くのを見た。

正直驚愕して声も出なかった。
そのくらい素晴らしかったからだ。
その時の感触は今でも体が覚えている。

彼が弾いた見事な演奏に触発され
私は家にまっしぐら。
そしてすぐさまピアノに向かった。

自分にもできるような気がしたからだ。

それから数十年が経つ。
その間、世界中のホンモノの音楽家に出会ってきた。
そこには、まさに「耳で観る」世界観が広がっていた。

音楽は世界の共通言語。確かにそうかもしれないが
日本では、演奏する側も、そして聴く側も
なぜか「比べる」ということがお好きなようだ。

日本では、デビューして数十年も経った世界的なアーティストを紹介するのに
コンクール歴を出して話すなんていう、大変失礼なことをする。

ホンモノの芸術家たちは、そんなものは必要としていない。
彼らは自分の発見した宝物を、メッセージとして共有したいだけなんだ。
わかるかい?

本当は一番じゃなくてもいいんだよ。
誰かに勝つ必要などないんだよ。

音楽を「競争」に利用する人たちへ。

其処にはホントの音が聞こえてこないよ。
もういい加減、気がついたらどうだろうか?

コンサートやオペラは目で観るものだと思っている人。

違うよ。

音楽ってのは耳で観るもの。

観音さまになってごらん。
そうしたら分かるから。

人の声になぜ感動するか?
それは人はみな、
一つの魂(たましい)を与えられ、それが唯一無二なの。

人の声には声紋がある。
指紋と同じで、その人にしかない声を聴く。

そして気付きを得るの。
ああ、自分もこうして歌いたい。

歌えるよ。
あなたにはあなたの歌が歌える。

声は変えられないんじゃなくて、「変える必要がない」ということ。

その「天から与えられた声」を自分なりに使い切ること。

場所、方法、手段を選ばないで、自分の「内なる声」を表現するのが、あなたの人生。あなたの仕事。

自分のホントの声を聴き、人のホントの声を聴く。

其処に観音の意味があると思う。

モーツァルトがムッツカシイのは、演るものも、聴くものも同じ。

モーツァルトは聴いてもなかなか聴こえないから。

モーツァルトが聴こえるとき、桃色が見えるよ。

いつもじゃないけど、愛を表現するときに沸き立つ色はピンク。
やってみな。感じてみな。楽しいよ。

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