2017/05/04

マーラーは超スピです。

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マーラーの交響曲第5番の第2と第3楽章は、
マーラー自身がかつて語ったように極めて演奏が難しい。
でも演奏するのが難しいのではなくて、
その世界観を指揮者が自分なりに思い描くのが、兎に角大変なワケだ。
今は第5番の話をしているけれど、それは別に第9番でも同じことだ。

弟子で高名な指揮者のブルーノ・ワルターが書いた手記があった影響で
(Themen und Variationenだったか)、
「大地の歌」や第9番がマーラーの「死への憧れ」みたいなことを言う人が多過ぎて、
正直マーラーの音楽について、いやもっと言うなら、マーラーの世界観については、
ある意味誤解が基本になって今のマーラー解釈が成り立っているように思う。

この写真は交響曲第5番のウィーン初演の際に出たカリカチュアで、
まぁ一種の冗談に成る程、マーラーの交響曲が持つ真剣さは、
逆に音楽というエンタメからは遥か遠くに位置するものだったように見える。

「理解されないマーラー」は、これだけ演奏機会がある今日でも同じだと思う。

私が最初に交響曲第5番を聴いた印象は、「なんだコリャ?」だった。
楽章が5つもあるし。
まだ交響曲第9番の方が20歳前の子供には分かりやすかった。

当時私はシューマンのクライスレリアーナの世界、
E.T.A.ホフマンの描くムルやクライスラーと言った
怪奇小説の主人公たちに翻弄されていたのに、
全く違うアプローチがマーラーには必要な気がした。

私が当時好んで弾いていたベルクの作品1のピアノソナタは
まだ循環的ソナタの浪漫性が極めて分かりやすい作品だし、
言って見れば歌劇「ヴォツェック」などとは違い、まさに個人的な室内楽なので、
当時から大好きなピアニストのビル・エヴァンスがタウンホールの公演で、
父親へのオマージュとして演奏したIn memory of his fatherに近い感覚だったから、
その後に演奏した7つの初期の歌やヴァイオリン協奏曲などでも、
この作品1の世界観の延長線上に全てが見え隠れしていたと思う。

でもマーラーの5番のひたすら対位法的な大伽藍は、
当時から全くもってとっかかりが見つからなかった。
当時は80年代後半。ヴィスコンティやT.マンの
「ヴェニスに死す」に描かれた世界は縁遠くても、
アダジェットは美しい、と言ったところか。

当時20歳に毛が生えたくらいだが、
マーラーのベートーヴェンの第9交響曲に対するコメントを読んで、
随分インスピレーションが湧いて来たし、
第9の中身そのものに対する見方が根刮ぎ変わる体験をした。

マーラーが言うように、ダンテの究極の古典「神曲」Divina Commediaの「地獄編」は、
確かにベートーヴェン第9の第2楽章を理解する上で重要だ。

「ファウスト」や「カラマーゾフ」を好んだマーラーの世界観は、
これらの偉大な文学作品よりかなり中世的で、むしろダンテに近いのだが、
その理由は彼がスピリチュアリズムに相当傾倒したからだと思う。

19世紀末にある意味高揚したスピリチュアリズムは、
残念ながら世界大戦によってその流れは失われたが、
今の日本人なら、マーラーのこう言った世界観が、
手に取るよう分かるのではないか。

マーラーはかって「自分の時代が来る。」と語った。

つまり彼が言う時代とは、共時性や集合的無意識について、
当たり前のように語る今の時代のことを指しているのだと思う。

マーラーがリュッケルトの東洋礼讃を自分の音の中に取り入れて、
Ich bin der Welt abhanden gekommen
「私はこの世界から離脱した」という作品を書いたのは、
生死を超えた見えない世界観を表現するためだ。
(極めて専門的ながら言及すると、
ドイツ語のvorhandenとabhandenを対義として考えるなら、
この訳は適当であると私は考える。)

マーラーを解く鍵はヘリゲルやユング、易経やフロイト、シュタイナーに在るのだが、
まだ声高に叫ぶ人がいないし、複雑過ぎて何も言わずに演奏だけしてお茶を濁すばかりだ。

でもはっきり言っておく。

マーラーの時代は既に来ている。
そして、このマーラーが生み出し得た世界観は、
今の日本が本当に似合うはずだ。

何故なら日本人にはカトリックの世界にはなし得ない信教と言論の自由があるからだ。

マーラーは言葉を超えて、今の時代を予見した。
そのZeitgeistは20世紀初頭ではなく、
明らかに21世紀初頭を見定めていたのである。

2017年5月憲法記念日に寄せて

村中大祐

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