2017/04/18

諸行無常に「響き」あり

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

日本人は
諸行無常の儚さを
はかなむのではなく
むしろ「愛でる」ことができる民族だ。

だがそこには「響き」が介在しているのではないか。
村上春樹氏のカタルーニャでのスピーチ全文を読んで思ったことだ。

破壊と再生を繰り返す自然の営みのなかにあって
神道を基本理念とする日本人は
異国の地から見れば
常に自然の破壊と再生との共存を「余儀なくされてきた」はずなのだが

当の日本人にとっては、そこに綿々と流れる時を肌で感じながら
「今」が今でなく、「過去」が過去でない感覚へと連なって行くのだと思う。
それが諸行無常の響きという表現に繋がるのではないか。

時を「響き」と例える国の民は
その流れに耳を澄ます。
そこには営々脈々とながれる自然の音、時の音、地球の音がある。

茶の湯での点前や弓が放たれる瞬間に感じる緊張や弛緩にも音があり
その音のなかには時が介在する。

不思議なことに、その音に永遠を感じたことがあるひとも多いと思う。

つまり「時」はひとが作り上げた概念だが
音こそが時の「正体」なのだ。

村上春樹氏の「ノルウエーの森」を外語大の在学中に読んだ覚えがあるが
彼の文章の深い意味はともかく
底流に流れている音のようなものがあると
これを書きながら気がついたのも
偶然ではないと思う。

関連記事

コメントを残す

*

CAPTCHA